エレファントカシマシ?なんなら結構好きだったよ
なんなら結構好きだった。
『ココロに花を』を持っていた。
中学生くらいの頃に、悲しみの果てを聴いて「いい曲だ〜〜!!」って思って買ったアルバム。
媒体がプレイヤー→AppleMusicに変わって大半のアルバムを売ってしまった時にも生き残って、戦いに勝った戦士然とした顔をして今も棚に鎮座している。
宮本の耳の病気、活動停止の時は心配すらしていた。
でもその程度の認識だった。
今から思うとあんなのニアミス。
かすりもしてない。
知ってしまったら、こんなの、「エレカシっていいよね〜」で済ませられる訳ないって。
なんだこれは。
これは、なんていうか、「そのもの」だ。
感情そのもの、魂そのものに触れさせられてる感覚。
私が沼落ちしたのは、2019年宮本浩次ソロだった。
車のラジオから『昇る太陽』が流れてきた時、チープな言葉でしか表現のしようがない、端的に言うと、要するに、「感動」した。つまりそうとしか言いようがない。私の語彙では限界がある。
知っていたはずのエレカシの人が、1人の男として勝負してる、敗れても立ち上がる負けの美学のようなものを感じた。
エレカシって、こんなんだっけ…?
その日家に帰って流れるようにダウンロードして課金をキメた。それからなんか分かんないけど、聴くと高確率で涙腺の留め具がバカになるから外で聴けなくなった。おそらくネジ的なパーツを車に落としたんだと思う。
エレカシのアルバムを買うライフワークが始まった。
それは好きなアーティストのアルバムを聴くというより、息を詰めて年表や年譜を捲る作業だった。
はたから見れば好きな音楽を聴いているというより調べものをして首を捻ったり感嘆しているように見えたと思う。
アルバムを1つ1つ遡って、この時の宮本は何歳、売上は何位、全財産持ち逃げされた時、と下世話な話も混みで知らなければならないと思った。幸いにもこのボーカルは事ある毎に「いま俺何歳」と教えてくれる人だった。
ライブMCではもちろん、曲にも「おれ30代」「三十七なり」「年齢は危うき35歳」とあったから作業は捗った。
好きな文豪の構成や背景(どこに住んで猫を何匹飼ってる等)を知るような気持ちだった。
そうして私のエレカシ素地が育っていった。
私のような潜在的ファンは世の中に星の数ほどいる。
それを拾い集める作業が宮本浩次のソロ活動なのかなと、思っている。